新シリーズ 世界・本好き紀行 —- 1

韓国の編集者パッズさんに聞く
ソウルにある「不思議の国の古本屋」

僕は古本屋へ出かけるのが好きだ。古い本が発する、あのよい匂いに誘われる。ページをめくった指の跡で黒ずんだ古本を、そっとなぜれば前の持ち主と交信しているような気がする。実用のためにも僕は新しい本よりも古本を買う。僕の欲しい本は、新本で買うよりも安く売られているタイプのものだから、これだけだってもう、古本に魅かれる理由は充分だというもの。

最近ちょっと変わった書店へかよっている。名前は「不思議の国の古本屋」。ソウルの北西部、恩平区(ウンピョンク)鷹岩洞(ウンアムドン)にある。この名前が、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」にそっくりなことには誰の目にもあきらかだ。そのとおり! 本屋の主人はルイス・キャロルのアリスシリーズの大ファン。入り口ですぐに目に飛び込む、いろいろな版のアリスの本。これは店主のコレクション。もちろん売りものではなくて、お客さんに見せるためのものだ。

落ち着いた音楽の流れる静かな雰囲気の店だ。だから本好きの客は、心やすらかに気持ちよく好きな本を探せる。文化的には、結局のところ学校と家庭しか行き場のない若い子たちのために、店でときおりイベントをしている。ティーンエイジャーと若い大人たちがディスカッションする日があったり、ライブがあったり、そんな若い子が自分たちで書いた文章で本を作る日があったり、さまざまな活動の場となっている。悲しいかな、こんなところはソウルにほとんどない。だから若い子たちにとってだけではなく、大人たちみんなにとって、この店の活動はとても貴重だ。

現実は僕の願いとはうらはらに、この不景気で古書店のみならず新刊書店も次々に店を閉めてしまっている。だんだん人々がネット書店で本を買うようになってしまったのもある。それでもやっぱりリアル古本屋の哲学というのはとても気持ちよいものだ、と僕は思っている。ある人がもう読んでしまった本を売る。これは単に本を売る、ということだけではなくて、「本を読んだ経験」を、外に向けて発信しているということだ。古書店へ行けば、僕は前の読者たちの経験がぎっしり並んだ本棚から、一冊づつを手に取ることができる。

この店の主人、尹(ユン)さん自身も、2冊の本を出している。第1冊はこの店の名前をそのままタイトルにした「不思議の国の古本屋」。これは尹さんの読書日記。第2冊は「深夜書房」。名前が日本のドラマの「深夜食堂」のパロディになっているから面白いね。こちらは自らの読書の感想文集。本のタイトルのとおり、実際に「不思議の国の古本屋」は2週にいちど、金曜日の夜から土曜日の朝までオールナイトで営業している。

店にはフィギュアの人形もいっぱい飾ってある。お客さんも楽しませるけれど、いちばん楽しんでいるのはもちろん店主。それからこの店には、まわりじゅうをすっかり本に囲まれての読書ができる、特別スペースがある。こんな軽やかな雰囲気が、この店の特長だ。

去年10月に当選した新しいソウル市長の朴元淳(パク・ウォンスン)氏は、自分のオフィスにある書斎のデザインを、なんとこの店主に頼んだ。それでこの不思議の国から来た彼が作ったのが、傾いた本棚。中央にあるテーブルは本棚に連結している。このデザインについて市長は、「右にも左にも偏りすぎずに、でもいろいろな意見をしっかりきいてコミュニケーションできる、みんなの市長でありたい」という願いと、「貧富、世代、場所といった違いによる格差が大きすぎる今、それを縮める仕事をしたい」という意志をこめた、と説明している。新しい市長がこの店主にデザインをオーダーしたことは、自分の仕事場を市民へ開かれたものにしよう、という気持ちのあらわれだ。

もしいつかソウルに来ることがあったら、地下にある、この小さい本屋を訊ねて欲しい。そしてぜひ、僕のように驚いて欲しい。

鄭 現壽 (パッズ・ジョン・ヒョンス) Paz Hyunsoo JUNG
1974年、韓国テグ市生まれ。ソウルにある児童書出版社の編集者。訳や執筆も手がける。以前は思想運動系出版で名高いガルムリ社に所属。